日本語教師としての異文化の捉え方

無意識のステレオタイプ

最初に自分で気づいたのは、国の導入でなぜか「アメリカ」を入れていたことでした。アメリカ人なんていないのに…。身近な外国というと、アメリカから始まって、ヨーロッパ諸国と近隣アジアぐらいで「なんとなく馴染みがある」から扱っていました。

でも、教える年数が増えるにつれて、「アメリカ」が必要なのは『みんなの日本語』のミラーさんぐらいで、私が教える場では、あまり提示しないほうがいいと気づきました。日本とアメリカは接点が多いのですが、他国とアメリカの関係はそれほど重要でなかったり、あまり仲良くなかったりしました。

特定の国に対する偏った見方は長い人生の中で根付いてしまうことは仕方のないことです。しかしながら、日本語教師としては、そこで一歩引いて各国に対する自分の認識を捉えなければならないと思います。与える例文や言葉の端々に、偏見が含まれてしまうおそれがあるからです。それを聞いた学習者に変なステレオタイプを植え付けたり、学習者自身を傷つけてしまうことも考えられます。それは教育者としてよろしくないでしょう。

「○○人学習者ってどう?」という問い

いろいろな国で教えてくると、この質問をされるんですが、本当は答えたくないと思っています。半分は模範解答的なものがいまいちわかっていない、自分の鈍感さも関係しているんですが…(笑)

「○○人学習者は、~だ」というと、他の教師にあらぬ偏見を与えかねないな~と思うのです。たまたま見てきた学習者を一般化できるほど知っているのか、という疑問が浮かびます。

結局、私が見ているのは個々の学習者であって、○○人ではないのです。「○○人は勤勉だ」とか言ったって、どうしようもない落ちこぼれもいますしね(笑)

異文化接触の最前線にいるということ

日本語教師は多国籍の人々と接することが普通の人より多いです。自分自身が無意識に持っている固定観念や偏見を客観的に捉えておく必要があると思います。

個人的に特定の文化に対して、好き・嫌いというのはあるとは思います。わたしもあえて言いませんけど、苦手だと感じるものはあります。ただ、教師として、それを他人や学習者に見える形にするのはよくないと思っています。教育者はやはり平等に・客観的に物事を捉える目を意識して持たねばならないでしょう。

学習者の発言の中にも思わぬステレオタイプがあったりしますが、それをたしなめることもたまにあります。声高に差別や偏見をやめろと言ったりはしませんが、「それを聞いて嫌だと思う人もいる」ということは常に意識しないといけませんね。異文化に限らず、性別や容姿の話もです。

とはいえ、一見「貶している」と見えることが、ある文化では「親しみを込めている」場合もあるのです。日本で「そんなこと言うもんじゃないよ!」と思っても、ある文化では「むしろ言ったほうがいい」なんてことはあるのです。こういう現象を目の当たりにするのが、日本語教師の仕事の面白いところです。(^o^)

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